光の「束」から、光の「粒」へ
理論家が多次元の空間を頭の中でイメージできるとしたら、僕らは実験室で、言葉ではなかなか言い表せない光子の様子や量子力学の世界を、日々データとして実感しています。たとえばオシロスコープという計測器に、光子が入ってきたら画面にポンとパルスが立つ表示が出るようにしておくと、室内の蛍光灯をつけた途端に、画面にばーっとたくさんのパルスが現れます。この計測器に少しずつ覆いを被せて光子が入らないようにしていくと、どんどんパルスが減っていき、最後にはついに蛇口から漏れる水滴のようにぽつんぽつんとしか現れなくなる。「あ、光子ってこういうものなんだな」と、実感しますね。量子鍵配送は、このごく小さな光子に情報を乗せて、そのひと粒ひと粒をコントロールして、送りたいところへ確実に届けるものです。これまで光の束で送っていたのと比べれば歴然と、技術としてきめ細かさが違うんですね。
言葉にできない「量子らしい」現象
また量子特有の「重ね合わせ状態」を利用して整形したわれわれの光子は、髪の毛数十本ぐらいの太さで長さ1.5cmの細長いパルス(波動)の形をしています。2つの光子を12cm離して1ペアとし、前後のパルスのどこに光子が存在するか、あるいは前後のパルスで振動のタイミング合っているかずれているか、などの違いで信号を構成します。たとえば光子が前のパルスにあれば「0」、後のパルスにあれば「1」に対応させ、この他に前後のパルスに1個の光子が同時に存在する「重ね合わせ状態(0+1)」も用意する、といった具合です。実際のパルスは、これらの状態の間を、重ね合わせ状態まで含めてランダムに変調しながら存在しています。またこのような光子同士をうまくぶつけると互いに打ち消し合ったり強め合ったりして、量子独得の「量子干渉」が起こります。まさに日常からかけ離れた「粒子であると同時に波である」という世界ですが、きちんと設計された装置で光子を送っては受信するという実験を何度も何度も繰り返すことで、量子の世界をリアルに実感できるようになってきます。さらに、ひとたび測定すると元の重ね合わせ状態には戻らないという性質、つまり、コピーできないという量子の特徴である「クローニング禁止定理」なども、「こんなふうに見えてくるのか」と、手にしみついた感覚として実感しています。
ヒッグス粒子と同じで「始まりにすぎない」
量子鍵配送は実用化の一歩前まで来ている一方で、さらに飛躍する世代交代の時期に来ているという印象を持っています。というのも、僕らがいざ実際にサイドチャンネル攻撃まで考えてBB84システムの実用的安全性を定量化しようとすると、現在の体系のみでは不十分で、確率論、統計推定の手法、誤り訂正の符号理論などにおける最新の成果を総動員しなければならず、それらの統合はまだ完成にはほど遠いからです。僕らが今、さまざまな課題に直面して思うのは、光子の世界を東京QKDネットワーク上で実際に動かすことができるとわかったら──最近ヒッグスが見つかったらさらに未知の世界が見えてきたというのと同じで──さらに、その向こうに拡がる新しい通信の世界が見えてきた、ということ。つまり、量子鍵配送は研究として、いよいよこれからなんだ、ということなんです。
まだ名前のついていないプロトコル
もうひとつには、今あるプロトコルでは、どうしてもシステムとして美しくない面がある。つまり僕らは現在、通信上のプロセスを逐一テストしてエラーがないか確認していますが、それよりも多少エラーがあっても、量子効果によって自動的補正できるシステムのほうが美しい。このような、将来たとえば「セルフテスティングQKD」と呼べるような新しいプロトコルについても、議論を始めています。それには光子の数を多くして、やはり量子の大きな特徴のひとつである「エンタングルメント(量子もつれ)」という性質を直接利用することになるでしょう。また理論面でも、たとえば現在暗号の分野で、RSA暗号の安全性を高める提案の中には「非可換代数」を使ったものも見受けられるんですね。非可換代数というのはまさに量子力学の数理構造ですから、非常に接点が感じられます。そしてその10年、15年先には、エンタングルメントを使って通信をリレーする「量子中継」がある。今実用化に差し掛かっている量子鍵配送は第一世代であり、これからもっとエレガントで実用性も備えた新世代が登場するような予感がします。おそらく現在の量子鍵配送は、多くの可能性のほんの一部で、われわれは量子暗号の全貌のほんの一部しかまだ目にしていないような気がします。──このように見渡していくと夢があるんですよ、すごく。